1994-2004
老人福祉の大きな転換期でもあったこの時期、川村 陽一新理事長の示す方針の下、猛スピードで改革が行われる時期を迎えます。
設立からの20年は地域の人々から「小山田さん」と呼ばれていたように、小山田地区の福祉施設であったのも確かなことでした。しかし、一地域の福祉施設から脱し、サテライト展開を行っていくことにより、「青山里会さん」と親しみを込めて呼ばれるように変化を遂げていきます。
新理事長である川村 陽一の下においても、新たな道を開拓、改革する精神は揺るぎないものでした。
常磐地区に、青山里会初めての拠点施設であるケアハウス常磐を開設しました。このケアハウスには、在宅介護サービスセンターを合築し、入居者がより身近なところで介護サービスを受けることができるようにしました。また、医療法人社団主体会が運営する、みえ川村老健との合築により、医療と福祉の連携がここでも実現しました。これは全国的にも初めての試みとなり、居住施設の新たなフレームを創造していくことになります。リハビリ機能を備えた老健が隣接していることで、必要に応じてサービス利用ができ、高齢者の自立をより一層促進することにもつながりました。
1人の力によって物事が完遂される困難性と脆弱性をいち早く察知した新理事長により、さらなる組織力の強化が図られ、法人本部制の下、職種・職域、サービス部門別、事業所ごとなど、縦断的かつ横断的な組織となりました。
地域への拠点づくりは、青山里会の新たなチャレンジとなります。
在宅介護に苦しむ家族や高齢者の身近に必要なサービスがなく、サービスを有効利用できていない実態がありました。このような課題を解決するために、四日市市では在宅介護支援センターとデイサービスおよび訪問給食を一元的に提供する、在宅介護サービスセンターを四日市市の23地域に展開していくことになります。
青山里会でも、小山田以外の地域も「いつでも、誰もが、平等に」サービスが受けられるケアシステムを構築し、点(小山田)から線(各サテライト)へ、そして面へと変えていく、新たな福祉改革への挑戦の幕開けとなりました。
亀山市に完成した複合施設は、亀山老人保健施設と亀山在宅介護サービスセンターで構成しました。四日市市川島地区に完成した在宅介護サービスセンターは、四日市市内で2番目となる施設です。
また、亀山と川島のデイサービスでは、同年「痴呆デイ事業」をスタートさせました。
高齢者福祉の拠点として四日市市寺方町に開設した「介護総合センターかんざき」は、特別養護老人ホーム、通所介護、介護相談などの機能を併せ持つ総合施設として、地元に密着した施設を目指し開設しています。
痴呆高齢者が住み慣れた地域で安心して暮らせる新たな住居として、グループホームを小山田と四郷の2拠点にオープンしました。グループホームは地域住民と連携し、家庭的な環境やなじみの関係の中で、「生活そのものをケアとして組み立てていく」ことを基本としました。自分でできることは、できる限り行っていただき、自立したその人らしい生活が送れることを目指しています。
重度の障害を持った当事者をピアカウンセラーとして雇用し、障害者の自立に向けた相談支援を充実させました。
従来型の多床室中心の特養改修は、全国の多くの施設が対象となるため動向が注目される中、小山田特別養護老人ホームの定員の一部を外部に出す分館型施設を小杉地区に開設しました。コスト削減の観点から、遊休資産の有効活用、特養の設備基準の緩和が必要で、全国に先駆け、構造改革特区として実施しています。
また、小杉介護サービスセンターの開設にあたって、「地域に根差す」ということの意義を再認識することになりました。地域住民の期待と信頼を得ることが大切であり、介護サービスが地域の持ち物という意識、すなわち地域に編成されたサービスになること。さらに、住民のニーズによって、サービスの修正と開発を行い地域に必要な施設となっていく姿勢が、青山里会の新たな使命となりました。
集団ケアから、徐々に個別性を重視したケアが求められるようになり、利用者本位のサービスへと変化をしていきます。
痴呆性高齢者の問題行動の対応に現場も苦慮し、試行錯誤を繰り返していました。その取り組みの一つが、「コンタクトパーソン」です。痴呆性高齢者の不安に着目し、いつも身近になじみの職員がいて話し相手や相談相手となることができたら、安心して過ごしていただけるのではないかという職員の声から誕生したものでした。この「コンタクトパーソン」体制をベースに、グループ別リーダー制の導入を図り、「個別ケアへの取り組み」を推進していきます。
食べることは私たちにとって大きな楽しみです。嚥下が困難になると、水分の摂取も難しくなります。少しでもおいしく飲食しやすいものができないかと考え、民間食品会社と介護・医療の現場とのチーム連携によって、嚥下困難者のための嚥下ゼリー開発に至りました。
栄養部においては、食事提供時に保温冷ワゴン車を導入。また、ケアワーカー部においては、適時適温給食への対応のため、遅番体制を導入しました。
ユニット(少人数の入居者が交流し、共同で日常生活を営むための場所で固定された職員がケアする)単位にすることで、一人一人の心身の状況・生活習慣・個性などを具体的に把握し、その上でその人のリズムに沿った生活と、他の入居者との交流を支援することが可能になりました。
これまで大部屋として運営されてきた小山田特別養護老人ホームが助成を受け、大部屋解消工事を実施しました。ショートステイの増床、ターミナルケアのための個室整備、フロアでグループ分けをしての個別対応、6人室から4人室への移行に対応し、施設機能の充実を図りました。
2000年に設立された痴呆ケア学会の第2回が四日市市で開催されました。この学会では口演発表が75題にわたり、一人一人のwell-beingを目指し、学際的な学会となりました。
要援護者の生活全体を支援するという観念での理解の必要性から、各地域の拠点を各種サービスの総合窓口にするという「ワン・ストップ・サービス」の実施に踏み切ります。
これにより、1カ所の相談機関を窓口に、必要な支援・サービスを受けられるようになり、要援護者・介護者の不安などを最小限にすることにつながりました。
レジデンシャルケア研究協議会は、2002年「高齢者が自分の地域(在宅)で、最後まで暮らすことができる場と介護が必要」との理念の下で立ち上げられました。人が人として生きることの尊厳を守る立場に立ち、在宅と施設の間に位置する24時間365日の介護を利用しながら生活できる「居住施設ケア(レジデンシャルケア)」の考えを持ち、課題解決のために議論がなされる場となりました。
2003年の第2回研究会議は四日市市で開催され、川村理事長が大会長を務めました。白熱した討議が行われ、「居住機能」「介護機能」に対する課題と期待が浮かび上がりました。
第3回の研究会議は長岡市で開催され、「住み慣れた地域社会の中で、支えられる仕組みを築いていくことが重要」という共通認識がなされました。
介護保険制度の開始時には、要介護認定の仕組みや支給限度額によってサービス提供が制限されるなど、さまざまな混乱があったものの、所得に関係なくサービス利用が可能になったことは大きなメリットでした。「措置」から「契約」へ、福祉サービスの大きな転換となりました。また、介護保険制度のスタートは、制度の目的でもある尊厳の保持と自立支援についての意識をより高めることとなりました。
事務部における請求事務の変更によるIT化、栄養部における介護保険適応のコンピューターソフトの導入など、事業所内でのIT化が推進され、イントラネットなどのネットワークも整備されました。
また、円滑な事務処理を行うため、「介護事務課」と「コンピュータ管理課」を設置しました。
2000年、介護保険制度導入に伴い、介護保険施設における管理栄養士とケアマネージャーの配置義務化が施行されました。
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