1972-1983
1972-1973年 | 設立に向けた歩み 〜今も根付く青山里会マインド〜 |
1974-1977年 | 青山里会設立期 〜行動を止めず土台を築く〜 |
1978-1983年 | 開拓期 〜社会福祉の転換期の中で礎をより盤石なものに。「職員の声がかたちに」福祉をリードする青山里会の行動力〜 |
1972-1973
左から、川村 耕造の妻、川村 耕造、川村 耕造の母、川村 陽一(川村 耕造の兄)
名古屋大学病院に勤務医として勤めていた川村 耕造は、当時80歳を迎えた祖母が脳卒中により寝たきり状態となってしまうという悲劇に見舞われます。
このときから祖母が世を去るまでの5年間、彼の母は昼夜を分かたず献身的に祖母を介護する日々を送ります。医師として祖母を診る傍ら、川村は当時の常識であった「寝たきり老人には安静第一」という考え方に疑問を抱き、老人福祉と医療における多くの問題点と矛盾を目の当たりにします。
寝たきり老人を受け入れる社会体制の不備を身をもって痛感した川村は、笑いも途絶え、重苦しく暗い現実を背負う寝たきり老人とその家族へ救いの手を差し伸べたいという強い決意を抱き、老人専門の施設づくりに心血を注ぎます。
しかし、当時は老人福祉に対する関心も低く、その道の草分けとなる者だけが味わう辛酸と苦闘が川村を待ち受けていました。
それでもなお、川村は諦めず、強い信念を持って挑戦を続けます。そして、その情熱と努力が実を結び、青山里会は設立されるのです。
青山里会設立までの道のりは決して平たんではありませんでしたが、川村の強い意志と深い愛情によって、多くの寝たきり老人とその家族に希望の光がともされました。
寝たきり老人の福祉施設をつくるために知識を得ること。それが、青山里会設立への第一歩でした。青山里会設立者の川村 耕造が、日本老年社会科学会をはじめとする国内外の学会に参加することから青山里会誕生への歩みが始まります。
国際老年学会参加とソ連長寿村の視察後、寝たきり老人の福祉施設をつくるために県や市への働きかけや厚生省をはじめ関係官庁へ陳情のため何度も足を運ぶなどの準備を進め、建設用地は川村の保有していた私有地を充てて建設開始へと歩を進めます。
今も大切にしている「Change & Challenge」の精神は、思いをかたちにする第一歩を踏み出した、川村のマインドを継承していると言っても過言ではありません。
農村地帯での施設建設という背景もあり、地元の方々との懇談や公会所を借りて説明会を行うなど、精力的に小山田地域を回り続けることで、地元の方々の理解と温かい支援をいただくことができました。このことは川村にとって、この上ない喜びでした。
地元の了解が得られた段階で、法人設立準備会を設立し、川村 耕造が設立代表者に選ばれました。
この年、厚生省より社会福祉法人 青山里会設立認可を授かります。
建設を着工した後に中東戦争が起こり、その影響で資材高騰が起きました。
当初の建設計画も大きく狂うこととなります。
予算の見直しを迫られる中、川村はその資金繰りに私財の全てを投入するという決断をして建設を続行します。
建設の過程も決して平たんなものではありませんでしたが、信念を貫き諦めることなく前進していきます。
1972
1973
1974-1977
困難を乗り越えて、法人施設としての特別養護老人ホームが誕生します。川村は喜びを感じつつ、「いかに福祉を高めるか」ということに意識を向けていました。
一人一人の職員が当会にとってかけがえのない宝であり、誇りです。
しかし、設立当初に新規採用した職員は、施設に全くなじみのない方々であったため、基礎学習や実践研修に寸暇を惜しんで取り組みました。
特養開設当初より重視された教育や研修は、現在の研修理念のまさに礎となっています。
川村が日本老年社会学会や日本社会福祉学会員となったのも、この年。
これは、有識者、専門家との交流を深めさらなる知識を身に付けることで、老人の処遇に関する諸問題を解決するためでした。一歩先を見て行動を続ける川村の姿勢は、ますます加速していきます。
老人の在宅介護の在り方について、社会福祉の分野で議論される時代となり、当会においても地域の方が抱える寝たきり老人などの問題について、地域の人々が支え合い、専門家の支援を受けて解決するという輪をつくる一歩を踏み出した1年でした。
特別養護老人ホーム開所から1年となるこの年。寝たきり老人問題は決して人ごとでは済まされない問題となっている中、「寝たきり老人相談コーナー」を開設。
また、「生きがい、ここに再び」をテーマに「寝たきり老人教室」を開催しました。会場には多くの市民が集まり、関心の高さもうかがえました。
地域の皆さまも加わった盆踊りや、入所されている方が丹精込めて作った作品を展示する文化祭も初めて開催しました。
文化活動が地域の皆さまとのつながりを生み、入所されている方のリハビリテーションの一翼を担うことが見えた1年となりました。
特養ホームを運営することによって直面する矛盾は多く、中でも医療との関わりは大きな問題でした。
特養ホームの入所者を診断することで、ほとんどの方に合併症が見られることが分かりました。寝たきりのリハビリテーションもさることながら、合併症との闘いの日々となり、病状が急変しても、特養の性質上、医療面での対応が薄くなるという現状に直面します。特養と病院の役割を理解せずに、非難の声が寄せられることもありました。
一方で、病院では寝たきり老人の入院には対応しきれないという現状もありました。
そして、この課題を解決するために、介護と医療を整備した病院を特養ホームに隣接して建設することを計画し、着手します。
施設処遇の新しい方向を探し求めていた川村は、第18回日本老年社会科学会にて、特別養護老人ホーム入居者の家族的背景第1報を発表します(於:広島)。これは、施設運営をする上で老人福祉の在り方を深く見極め、地域社会に老人福祉の芽を根付かせることを目的とした活動の一つでした。
この年、特別養護老人ホームの増築、老人専門病院が完成を迎えます。
川村の環境改善、課題解決へのチャレンジは止まることはありません。新しい観点から問題を提起し、改善に取り組む姿勢は、まさに「Change & Challenge」の手本です。
医療と福祉が隣接する施設として存在することによって、これまで感じていた矛盾を解決し、特養が抱える弱点を克服した環境となりました。合わせて、特養ホームの増設も完成を迎え、寝たきり老人や家族への朗報となりました。
川村は寝たきり老人を抱える家族の問題にも継続して目を向けます。第19回日本老年社会科学会での発表は、注目を集めました。少しでも家族の負担を軽減するように努め、老人福祉の成果をあげる必要性を説いています。
1974
1975
1976
1977
1978-1983
記念館完成は1984年
青山里会のかたちが作られた開拓期にあたります。
この時期には、老人福祉の分野に限らず社会福祉の世界において、社会福祉事業や社会福祉サービスの在り方、特に福祉対象者の範囲拡大とサービス供給方式についてなど、幅広い議論が行われていました。
青山里会だからこそ達成することができた介護別、医療との有機的な関連性を持つ老人福祉施設群の建設整備までの歩みにおいては、社会のニーズに応えることはもとより、職員の思いや声が開所につながった施設もありました。
これまで参加していた学会活動はもちろん、1978年、初めて日本で行われた国際老年学会(第11回)における発表は、わが国の老人問題が国際的にも注目され始めた出来事でした。また、老人福祉専門誌「老人福祉入門」の執筆に携わり、実践の手引書としても活用される専門誌となります。
1979年、B型軽費老人ホーム(自炊型)の開所を皮切りに、多様化するニーズに対応する施設の開所が続きます。
「老人福祉問題全般から考えたときに、寝たきりの方向けの介護だけで良いのだろうか」という疑問が職員から出始めました。この熱意を受け、「B型軽費老人ホーム(自炊型)」の開所に踏み切ることになりました。
地域の皆さまや職員の声、社会のニーズに耳を傾け、課題解決や改善に取り組む当法人の文化は、この時代から受け継がれる大切な精神です。
社会的な問題として全国的に痴呆性老人対策の問題が起き始めます。寝たきりの方や健康な方への対応を行っていた当法人ですが、次第に異常行動を伴う老人が増え始めます。
健康な方と、痴呆性の症状をお持ちの方とそうでない方が共に暮らすというのは、非常に困難であることから、1980年に痴呆性老人の専門施設(第二小山田特別養護老人ホーム)の計画を立て、新築起工式を迎えます。
いろいろな意見や批判もある中での取り組みでしたが、信念を持って痴呆性老人処遇への道の開拓を決めました。1981年4月、全国で初めての痴呆症老人専用の施設を開設するに至ります。
1981年に四日市市からの委託を受け、1982年4月に小山田デイサービスセンターが開所します。デイサービスの開始は、在宅ケアが必要な老人の介護にあたっていたご家族への負担軽減につながります。
また、小山田デイサービスセンターでは、老人福祉に関する情報提供をし、施設と地域の交流を深めるため、機関誌の発行にも取り組みます(年4回発行「小山田デイサービスセンターだより」)。
1983年4月、第二小山田軽費老人ホーム(青山の里)A型が完成したことにより、念願であった介護別老人ホーム体系が確立されました。
老人は慣れ親しんだ場所から他の場所へ移動すると、不安による体への影響も大きいため、敷地内に一貫した「コンビネーション・システム」という施設整備方式を採用。精神的不安を取り除く施設整備を心がけてきました。
1983年、痴呆性老人の専門施設開設から始まった、一貫した介護別かつ医療との有機的な関連性を持たせた老人福祉施設群、建設整備の開拓は達成されました。
1982年以降、生活の場にふさわしい「潤いと楽しみを満喫できる快適な生活を」という思いから、施設内外の環境整備が加速していきます。
福祉サービスは無料で与えられるものという考えから、福祉サービスを買う時代に変化しつつある中、老人ホームは老人自らが主体性を持って生活を営む場へ質的変化を求められるようになってきたのもこの時期です。
1982年以降、遊歩道や日本庭園、『日本古来あずまや』大欠荘、ゲートボール施設、動物の飼育、農作業、絵画や焼き物の設備・展示の場としての福祉センターなど、自然の素晴らしさと創造の楽しみを味わうさまざまな環境が整っていきます。
1982年10月には高松宮さまが施設へおいでになりました。また、1984年には天皇陛下より下賜された御下賜金による記念会館が完成します。
この出来事は、職員一同忘れることができない出来事となりました。
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984-1993
加速する高齢化社会 〜時代を先読みした施設の拡充と人材育成〜