1984-1993
これまで小山田地区には、寝たきり老人や痴呆性老人の専門施設をはじめとした介護ニーズ別かつ医療との有機的な関連性を持った老人福祉施設群を展開してきました。
この発展期においては、1984年に人口白書により発表された高齢化社会が急速に進むという予測を背景に、これまで展開してきた施設の処遇改善や新たな種別の施設を開所するなど、より一層充実した生活環境づくりが進んでいきます。
10周年を迎えた青山里会の振り返りと、加速する高齢化社会の将来を展望した上での医療・福祉事業の展開を考えたとき、施設重視の考え方から在宅福祉重視への転換を余儀なくされることは必須であり、長期療養・在宅福祉策の整備など、患者本位の医療と福祉の実現への第一歩を踏み出すことになります。(1984年サマーセミナーより)
1985年のサマーセミナーは、テーマを「患者本位の医療・福祉を求めて」と定め、有識者による講演を開催しました。
人口白書により発表された急速な高齢化に対応することが迫られる中、青山里会10周年となる1984年以降、福祉領域の拡大なども含め小山田地区施設群の発展が加速します。
青山里会においても、施設のワンフロアや一部のエリアを使って痴呆性老人を処遇することを検討し、既存の各施設の改築を行います。これにより受け入れ困難な痴呆性老人のキャパシティーを拡充することにつながっていきます。
この年、キリン記念財団の支援を受け、呆け老人介護相談所を設置しました。当時は介護に関する相談をできる機関が少なく、土日夜間などとなれば相談場所は皆無となっていました。この相談所の設置は、家庭で介護する方々にとっては朗報となりました。
当時、まだコンピューターが一般化されていなかった頃、1985年には経理処理に関して、続く1986年には栄養業務に関して、コンピューターを導入しました。
併せて、事務部門の本部化、栄養関係の集中化をさせることで合理的な事務処理と省力化を目指す体制をつくります。また、職域においても、部署制を導入し、同職種の横断的な組織化を図る一歩としました。
1986年は、医療と福祉が一体となっている点では全国に例のない規模の小山田記念温泉病院が完成した年でもありますが、青山里会としては、施設利用者と地域住民の交流を目的に小山田地域交流ホームを開所しました。また、50度の温泉が湧き出し、天然温泉を利用した露天風呂「きじの湯」をオープンしたのもこの年。小動物園「ふれあい動物園」をはじめとする諸施設の開所は、入所されている方の人間性を大切にしようとする試みでもありました。
また、福祉と医療をより多くの方に知っていただくため、この年に第1回小山田温泉まつりも開催されました。以降、恒例行事として定着していきます。
老人保健法改正に伴う老人保健施設の設置を進める厚生省は、モデル施設において介護機能訓練や日常生活のサービス提供のために、どのような医療やサービスが必要か分析を進めます。青山里会もモデル施設の一つとして、老人施設革命に参画しました。
移転した小山田病院を改築し、県内で4番目の施設となる身体障害者療護施設「小山田苑」をオープンしました。これまでは老人にフォーカスした施設展開を行っていましたが、65歳未満の身体障害者向けに福祉領域を拡大します。
痴呆性老人の処遇形態について検討(1984)という出来事がありました。この年の小山田特養は60床増築し、そのうち20床を痴呆性老人専用エリアとします。スプリンクラー設備も整備し、環境面の改善も実施しました。
「小山田苑」の5階にあった小山田老人保健施設が、別棟を設けて独立し完成。これまでの30床から70床に増床され、100床となりました。また、デイケアも定員20名で実施することになりました。
痴呆性老人の昼間のケアは各地で行われていましたが、夜間介護は県内で初めての取り組みでした。「ナイトケア事業」は、午後5時から翌朝午前9時までお年寄りの介護をお願いできる制度でした。
この年完成を迎える「小山田ケアハウス」。日本のモデル施設となるべく、長年十分な高齢者向けの住宅として機能するようになどのアドバイスをいただき、設計段階において基本設計をやり直し、当初の予定よりも4カ月遅れて完成を迎えることになりました。
ケアハウスは自立を目的にしているため、必要なサービスは自ら依頼しないと受けられないというのが特長です。老健も自立を目的にしていますが、日本家屋の構造上の問題からも在宅復帰は容易ではありません。ケアハウスは在宅復帰こそならないものの、老人の自立生活を促すという点でその機能は期待されました。
在宅介護支援センターは、アセスメントサービスシステムの総合窓口となる機能として事業を開始します。在宅介護支援センターには個別情報を一元的に集め、ケアの一連の流れを構築する重要な機能となります。
重度の身体障害者の自立手段の一つとして、「才山工芸村」が設立されました。
身体障害者療護施設の機能に「自立」機能を求めるもので、授産機能をさらに高めることを目指した施設でした。
設立当初から「質」を意識した教育を行ってきた青山里会ですが、この時期には人材に関わる制度化があったことも背景に、学校の設立などの動きにつながる時期になります。
また、職員を取り巻く環境も変化していく時期を迎えます。
痴呆性老人の増加は、青山里会だけではなく県内の特養においても対応が急がれることでした。そのような中、第二小山田特別養護老人ホームにおいて、県内の特養の直接処遇職員を対象にした研修が実施されました。
1987年に制度化された社会福祉士・介護福祉士法を受け、介護福祉士の養成施設設置の検討を進め、1990年に開校を迎えます。当時から課題であった慢性的な人材不足の解消や、「質」の高いマンパワーの補充源として期待されました。
1992年には、四日市福祉専門学校と名称を変更し、全国で初の昼間定時制(修業年限3年)となります。
職員数も300名を超えたこの年、本格的な研修施設としてホール「ピア小山田」を建築します。本格的な視聴覚設備も備え、ステージとしても活用できる施設となりました。
寮の利用者からの意見を聞き、ワンルームマンションタイプの増築検討を始めます。職場だけではなく、自分の時間を過ごす寮においても働きやすい環境づくりが進む年となりました。
青山里会の設立当初から使ってきた「寮母」からケアワーカーに呼称が統一されました。また、白衣から親しみやすいユニホームに一新されたのも大きな出来事でした。
職員の福利厚生も大きく変わったのがこの年。職員旅行の1回目は、ソウル・香港・グアムでした。
1993年3月17日、初代理事長の川村 耕造が急逝(享年60歳)。青山里会の設立はもとより、日本の福祉の方向性を示唆した業績は大きいものでした。
二代目理事長には川村 陽一が就任。老人福祉の転換期に突入していきます。
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